2020年6月14日日曜日

近道をしない

 今週から、県内中学生も、ようやく公的グラウンドの使用が解禁になった。

 冬季閉鎖に続いてのコロナ自粛だったので、6か月以上外での練習を我慢していたことになる。私たちにとっても初めての経験で、選手たちにとっては、長いトンネルだったと思う。

 コロナウィルスに関する予測を、現状で自信をもって語れる人は誰もいない。その点、2年前の大雪での練習中止より気持ちの面でつらかったと思う。しかし、前の投稿でも書いたが、人間は感染症の危機をこれまで何度も乗り越えてきた。私は、今の状態がそのまま新しい生活として定着するのではなく、多くの面でこれまでの生活を取り戻すことができると思うし、また、そうしなければならないと思っている。ただし、そのためには、以前のMARSやSARS禍よりも、私たちに持久力が求められるかもしれない。


 漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の作者荒木飛呂彦氏が、先日還暦を迎えたことにちなんで、ネット上でもいくつか記事を見たが、作家の石戸諭氏が、漫画の中の「真実に向かおうとする意思」というセリフをとりあげ、コロナ禍の今こそ響く内容と書いており、非常にうなづけるものがあった。

 このセリフが登場するのは、第5部の主人公の仲間であるアバッキオが敵に不意打ちで殺され、天国へ向かう前に見る夢の場面。アバッキオは、幼少から憧れていた警察官になったものの現実に絶望し、ギャングの一味に身を落としながら、再度正義のために戦おうと決意したばかりだった。その夢の中に、かつて自分の不祥事のせいで殉職した同僚が現れて「真実に向かおうとする意思」について語る。

 見返りがあるかどうかもわからない仕事に関するアバッキオの問いに、同僚は、「わたしは『結果』だけを求めてはいない。『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…近道した時真実を見失うかもしれない」「大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている」と確信を持って答える。

 コロナ禍の中に置かれている私たちは、見えない敵や、先の見えない不安に自分を見失い、安易な『結果』を求めようとしがちではないだろうか。弱い立場の人を匿名で攻撃する、感染の拡大をすべてWHOのせいにする、あるいは、自分だけはいいだろう、他の人もやっているだろう、とルールを軽視する。

 しかし、その先にあるのは「真実」ではない。「真実」が見えない時に、手近なものを「真実」の代用にするのではなく、粘り強く自分を諫め、いずれ見つかる「真実」に向かって歩き続けることの大切さとなかなかそうできない悲しさをこの漫画は表現している。


 この6か月余、特にコロナ禍で練習を自粛してきた2か月余は、選手たちにとって、つらい回り道だったに違いない。これから、実戦カンを取り戻すのも容易ではないだろう。
 けれども、毎日のように監督から配信される自宅トレーニングメニューに愚直に取り組んできた3年生の目は、再び集まったとき、決して時間を無駄にしてきた者の目では無かった。まさに「今やらなければならないことを全力で」やってきた成長をうかがわせる表情だった。

 長い野球人生を考えれば、この6か月間は、決して失われた6か月ではなく、どの時期よりも濃密な時期であり、結局それがほんとうの近道だったということに気づく日が、必ず来るだろう。

 試行錯誤は続くだろうが、保護者の方も、今子ども達は将来に向けて大きな貯金をしていることを信じて、焦らず、暖かく見守っていただきたい。そうすれば、夢に「いつかはたどり着くだろう」「向かっているわけだからな」


2020年6月8日月曜日

前へ進む

 チーム練習を再開して1週間余。福井県は新規感染者無しを41日続けている。入院が続き重体と伝えられていたお一人も、肺炎が快方に向かったと聞いた。嬉しかった。

 東京では緊急事態解除後、感染者が増えたと緊張が走っているが、解除しても全く感染者が発生しないと考えていたわけではないだろう。ステップを進めるあるいは戻すための数字は明らかにされているが、その根拠がわからない。

 中国は、コロナ感染症で最初に被害を被った武漢市で、1000万人のほぼ全住民に検査を行った結果、陽性と判定されたのは300人余だったと、感染の制圧が裏付けられたと発表した。1000万人を2週間で検査できるのだろうかと疑問もあるが、この判断は、欧州などで少しずつ文化活動を再開している根拠と違和感がない。

 「新しい生活様式」ということが言われ、またその言葉が独り歩きしている感がある。時差通勤を行って満員電車の通勤を避けるとか、手洗いの習慣づけとかは、コロナ感染がおさまっても続けた方がいいだろう。でも、私たちがすべきことは「新しい生活様式」ではなく、どうしたら「元の生活」に戻れるかではないか。

 マスクの着用、ソーシャルディスタンスの確保、これらは聴覚や視覚に障がいを持つ方にとっては、社会との遮断に繋がり、生活そのものが成り立たなくなる厳しさがある。派遣切りで仕事や住む家も失った方々には政府の支援自体が届かない。これに限らず、人々の繋がりを希薄にすることで、どれだけの人が支えを失いつつあるか。「新しい」という言葉は、往々にして残酷な意味を伴うが、「新しい生活様式」という言葉を既成事実のように使う時、どれだけの人々や、人間が長年築いてきた価値を切り捨てているか、爆発的感染がおさまっている今、冷静に考えてみるべきだと思う。

 グローバリゼーションの弱点を突いて、今回のコロナはかつてない急速な拡大を見たが、人類が大規模な感染症の被害を被るのは、初めてではない。

 また、感染症を引き起こすウィルスについて、人間がいつかすべてを解明し、恐怖から無縁になる時が来ると思っているなら、それは、自然に対する人間の思い上がり以外何物でもないだろう。

 しかし、そうしたリスクや不安もあるこの世界でも、人間は生きていく道を毎回見つけ、人間らしい生活を取り戻してきた。それは長い歴史が証明している。

 暗闇を手探りで歩くことになっても、その場にとどまらず、一歩でも前に進まなくてはいけない。慎重と臆病は違う。

 全国の花火大会の6割以上が中止になる中で、6月1日、ウィルス禍終息への願いと人々へ元気を届けたいという願いをこめて、全国一斉に花火師が花火を打ち上げた。

 予告なしに突然、胸を揺さぶる音とともに漆黒の空に咲いた花火に、人々はどれだけ勇気づけられただろう。

 私も花火が大好きで、東京にいたころ、毎年両国の川開きを見に行った。花火は儚さが強調されがちだけれども、打ち上げ花火は、その瞬間、心を解放してくれる力がある。

 打ち上げ花火はそれを見ようとすると、自然に上を向くことになる。隣を見ると同じように顔を上げた大切な人の目に花火が映って輝く。僅か5分の花火大会。それは勿論、生活をかけた花火師の方々が前を向くためでもあった。


 今年も半分が終わったが、謙虚さを忘れず、恐怖に打ち勝って、前へ進もう。

2020年5月27日水曜日

感謝の身持ちを力に変えて

「今やらなければならないことを全力で」

 われらが名誉顧問宮本和知さんからいただいた言葉を、ずっとチームのスローガンにしてきた。もう一つ、宮本さんが繰り返し子どもたちに語ってくださる言葉で、忘れられないものがある。

 「ありがとう」の反対の言葉は何か、と宮本さんは子ども達に聞く。皆さんは何を思い浮かべるだろうか。答えは、「ごめんなさい」じゃなくて、「当たり前」。

 自分が希望さえすれば野球を続けられる、これは「当たり前」じゃない。でも、私たちは些細なことにばかり気を取られて、すぐに忘れてしまう。今、コロナ禍で野球はおろか、学校へも行けない長い期間、野球ができるのは当たり前じゃない、と子ども達もつくづく思い知らされたのではないだろうか。

 つらい時、自分のことだけを考えていると行き詰るが、小さなことでも、誰かのために何かしたいと思えば、意外に人は強くなれるものだ。

 TVのニュースで医療に従事される方や運輸に従事される方への偏見や差別について取り上げていた。

 「偏見」という言い方に私は違和感を感じる。「偏見」というと、悪気はないが、知識が不足し、本当の姿が見えなかったせいであって、「偏見」を持った個人には責任がないかのような言い方だ。緊急事態の下、医療や運輸に従事される方の献身的な努力がなければ社会が成り立たないことは、子どもでもわかる。
 たとえ「偏見」を持たれても、医療や運輸に従事する方は、その職場を守り続けなければならないことが分かっていて、自分の不安や不満のはけ口に、逃げ場のない人を攻撃する。これは、人間としていちばん恥ずかしいことだと思う。

 病気になったら医者に診てもらえる、携帯で注文すれば必要なものを自宅まで運んでくれる、これは全然「当たり前」じゃない。
 素直な気持ちで考えていけば、「当たり前」で済むことなんかひとつもない。
 今もきっと、野球どころではない人たちが、野球を再開できる人よりも大勢いる。

 その中で大好きな野球を始められる僕たちは、何は無くても「ありがとう」の思いを忘れないようにしたい。
 そして、まだ困難はあるだろうが、一人の脱落者も出さず、選手全員に中学野球を完走させたい。

 活動再開まで、あと3日である。


2020年5月24日日曜日

リトルシニア活動再開を前に

 今日は快晴で風も穏やかだったので、越前海岸をドライブした。道路から見る海は青空を映してきらめき、山々の緑もむせるように濃く、コロナ禍の影響を感じさせるものは何もないように見えた。

 リトルシニア東海連盟も、5月30日以降、条件付きではあるが練習の再開を決定した。子ども達にとっては、2か月遅れの球春が訪れたようなものだ。甲子園大会は中止が決まったが、中学生硬式野球の各リーグは、夏の大会条件付開催可否の結論をまだ出していない。

 野球経験のない私にとって、甲子園中止という衝撃を、「自分として」どう理解したらいいのか、今も考えている。

 先日の投稿で触れたように、私は大学時代合唱団活動に没頭していた。主力の3年生時代、私たちは、当時自主労組連帯が中心になって民主化を始めたポーランドに注目した。地政学上の理由から、何度も戦争に巻き込まれ、第二次大戦ではナチスに最も多く殺され、さらに民主化闘争に命を懸けるポーランド人の歴史を学んだ私たちは、その不屈の精神に胸を打たれた。そして、たたかいの中で歌い継がれてきた歌をとりあげ、定期演奏会で演奏した。取り上げた曲の半数以上が日本初公開の歌で、技術的なことよりも、その内容を理解すること、その歌を歌う資格のある人間に一歩でも近づくことのために、青臭い情熱を傾けた。冬場暖房のない練習場で寒さに凍えながらの練習、曲の解釈や演出をめぐって徹夜の話し合いもざらであった。

 幸い演奏会は成功し、大きな反響を呼んだが、仮に、この演奏会が、直前に感染症が拡大したことを理由に中止されたら、と考えた。音楽は人に聞かせてナンボである。30年以上前、今のようにバーチャルな手段など想像の中にもない。残るのは、会場やパンフレットなどの債務だけ。音楽に自分の生き方を重ね合わせ葛藤してきた思いの行き先は、容易に見つからなかっただろう。

 結果として、全国大会の舞台に立てるかどうかは大きな問題ではないと思う。小さいころから目標にしてきたものが、自分ではどうしようもない理由で失われる無念さを、若者に理屈で納得しろというのは、思いやりがなさすぎる。

 野球をやっている若者には野球が何より特別なはずだ。陸上をやっている若者には陸上が特別だし、ブラスバンドをやっている若者には音楽が特別だ。
 平田オリザさんが言っていたように、誰にとっても生命が一番大切だが、その次に大事なものは違うし、それは他人に説明できる性質のものではない。
 現実にできないという判断をするのがやむを得ないということと、それを気持ちで受け入れよと自分の痛み無しに強制していいかどうかは、まったく別の問題だ。

 これから、スポーツ活動、文化活動がどう戻っていくのか、まだだれにも分からない。ウィルス感染防止という観点からは、すべてを一律に再開、あるいは制限解除できない場合もあると思う。
 その際に、部外者が足を引っ張りあうのではなく、先にできるところは認め、遅れざるを得ないところを思いやり、経験を伝えていく、そういう思いやりのある世の中になってほしい。そのためには、大人が手本を示さなければならない。


2020年5月23日土曜日

頑張ることは、繋がるんや

 NHKの連続テレビ小説「エール」をずっと見ている。

 5000曲以上を作曲した作曲家古関裕而とその妻金子をモデルにした物語で、窪田正孝と二階堂ふみの初々しい演技から元気をもらってる。

 今週は、自分の実力を示そうと躍起になるあまり袋小路に入り込んでしまった裕一(裕而)が、早稲田大学野球部の新しい応援歌「紺碧の空」の作曲に取り組むことで、新しい道を見つけるところだった。

 宿敵慶応に勝てない早稲田の応援団は、新しい応援歌を裕一に依頼するが、クラシック志向の裕一はやる気にならない。裕一の心を動かしたのは、かつて自分のせいで怪我を負わせた親友のためにも何としても早稲田を勝たせてほしいと語る団長の言葉。裕一は一晩で「紺碧の空」を作曲し、その秋早稲田は慶応を破り、この歌は今も早稲田の第一応援歌として歌い継がれている。

 団長は「頑張ることは、繋がるんや」と話す。野球で頑張っている人は、周囲の人にも頑張ろうという気持ちを呼び起こす。またその人が別の人を励ます。そうやって、「頑張ることは、繋がるんや」と。

 私は運動は全く駄目だが、大学時代合唱に熱中した。男だけの男声合唱で、「生活に結び付いた歌を、社会に明るい歌声を」をスローガンとして、人々に勇気を与える歌をできるだけ高い技量で追及する硬派の合唱団だった。残念ながらだいぶ前に廃部して今はない。音楽は素人だったが、音楽の技術的なことより、人の心を動かし、ひいては社会も変えてしまうような力が音楽にあることを学んだ。(近年では、南アフリカの黒人解放にポール・サイモンやスティービー・ワンダーの音楽が影響を与えたと言われている)

 野球でも、音楽でも、独りよがりでは意味がない。不器用でも頑張っている姿は、同じように苦しんでいる人を励ますことができる。

 もうすぐ野球の練習は再開できるだろう。焦る気持ちも当然あるだろうが、ひたむきに努力することが誰かを励ましていることも忘れないでほしい。そして、周囲から応援される選手になってほしい。 

 誰でも声をそろえて歌いやすく、気持ちが込められるという古関裕而の歌の特徴は、「紺碧の空」に既に明確になっていた。彼はその後、「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」など、野球好きなら誰もが知っている名曲を次々に生み出していく。

 たまたま、昨晩はNHKBSで、2005年のセリーグで阪神が優勝した試合を見た。「六甲おろし」は何度聞いてもいい曲である。

2020年5月20日水曜日

花を咲かせる土に…

 日本高校野球連盟など、全国高校野球選手権大会運営委員会及び理事会は、夏の甲子園大会の中止を正式に決定した。

 選手や関係者の安全確保を優先するのは当然だが、爆発的感染が減速し、学校や経済活動が少しずつ戻ってきていることを考えると、最終判断はもう少し後でも良かったのではないか、という気持ちは正直ある。加えて、プロ野球選手会が経済的支援を申し出る中で、地方大会まで中止になったのは残念としか言いようがない。

 全国大会が中止でも、今後の状況を見ながら、地方大会はあきらめず、3年生の最後の活躍の場を作ってほしかった。ただ、地方大会は都道府県判断で独自開催する道は残っているらしい。開催のため協力できることはしていきたい。

 今年の高校3年生は、私たちチームの5期生にあたる。

 5期生は、福井嶺北創立初めて1学年で10人以上が集まり、参加できる大会も一気に増えた。個性豊かで、野球に対してひたむきな子ども達ばかりだった。何より練習好きで、時間があればバットを振っている連中だった。それまで以上に、何とか勝たせてやりたい、と思わずにはいられなかったが、中学生時代は私達の力不足で結果を出してやれなかった。

 それでも、彼らの姿勢は、後輩に受け継がれ、その後の福井嶺北の文化となった。6期生、7期生は、一緒に練習し戦った先輩を誇りに思っているに違いない。

 卒団後も何かと交流があり、高校野球の世界に笑顔で旅立った彼らが、相変わらず野球が好きで、日々猛練習に取り組んでいることを聞いていた。今年は甲子園という言葉を聞くたび、彼ら一人一人の顔を思い浮かべたものだ。

 「花よりも花を咲かせる土になれ」

 松井秀喜を育てた星稜高校の名将山下監督の有名な言葉を今味わっている。山下監督は、1年生には礼儀を、2年生に努力の大切さを、そして3年生には周りへの感謝を教えてきたという。松井が5打席連続敬遠されても、冷静にチームプレーに専念したのは、勝負の結果より人間性を大事にする指導があってのことだ。

 花は咲いても、その美しさは、はかない。しかし、土の生命力は、永遠である。

 彼らが無念を乗り越えて、野球や人生でこれからどんな花を咲かせるか、楽しみに待っているし、待っている資格のある人間でありたいと思う。


2020年5月18日月曜日

緊急事態がすこしずつ解除されて

 コロナウィルスの感染はおさまってきたかのように見える。ただ、これはだいぶ無理をして接触機会を抑えてきた結果で、社会的免疫ができたわけではないから、感染の第2波があるかもしれないし、ないかもしれない。しかし、リスクがゼロになるまでステイホームしていたら社会は崩壊してしまう。過去にMARSやSARSが発生し、今後もウィルスの変異は起きるだろうから、私たちはウィルスとうまく共存する暮らし方を考えなくてはいけない。

 その切り札が電子的なネットワークの活用だと言われているが、それはあまりに表面的すぎると思う。

 もともと地球上に多種多様なウィルスが存在しているが、それぞれの地域で平和に生物と共存してきた。森林の乱開発によって、それが変異しながら人間社会に拡散してきたのが、エボラはじめ危険なウィルス流行の根本原因だ。それに加えてグローバリズム万能の考えの下、世界的分業で農作物、労働力含めて各国の自給率が落ちたのも問題だ。また、世界で1%に満たない人が半分以上の利益を独占し、貧富の差は拡大する一方で、医療を受けたくても受けられない人がいる。医療関係者の懸命な努力にもかかわらず、この10年間、臨床ベッド数は減らされ続けた。テレワークで仕事ができるのは一部の職業だけだ。現場を離れられない多くの人はIT化の置き去りにされている。

 老人や、私のように持病を持った人、あるいは不注意な人が犠牲になるのではない。持たざる者が死ぬ、という現実を直視し、ひとりひとり知恵と持てる力を分け合って、解決していくしかない、と思う。手に余るものはいらない。そのかわり、皆が少しずつ持てる社会であればいい。ステイホームで家族と過ごした時間を、家族と、身近な人と、そして少しずつ広い範囲の人のことを慈しむきっかけにしたい。

 松井秀喜は、ベストセラー「不動心」で「コントロールできることとできないことを分ける」ことを語っていた。今我慢しなければならないことは、不平不満を言ったり、誰かを攻撃したいりしてもしょうがない。でもひとりひとりができることはあるはずだ。小さなことでもいい。一人で練習するメニューも随分覚えただろう。改めて野球が好きだと思えたら、それ自体が宝物ではないか。

2020年5月16日土曜日

遥かなる甲子園

 夏の甲子園中止へ、という見出しがTVニュースや新聞のトップに掲げられた。5月20日まで正式決定ではないが、懸念していたとはいえ、球児たちがもっとも見たくなかった結果になりつつある。

 甲子園の出場を争うチームの選手たちのほとんどは、小学生から野球をやることが生きることと同義だった子ども達だ。野球に打ち込める物理的量は、高校によって違うが、気持ちは強豪校だろうと、一般公立校だろうと何ら差があるものではない。
 息子が縁あって高校球児となり、今時嘘みたいな良い仲間に恵まれ、親子一緒に成長できた。3年の春の県大会で決勝進出に王手をかけるまでになり、夏の甲子園を真剣に目指す中でもドラマがあった。しかし、現実は夏の県大会1回戦敗退。高校は夏負けた瞬間に終わる、という残酷さを体験した。
 それでも、全力を尽くして戦って負けたのだから、涙を流した後は前を向ける。
 たたかって負けることさえできなかった選手たちの気持ちを、野球に関わっていない方も、どうか思いやってほしい。

 高野連はこれ以上ない辛い決断だろう。高校総体が早々と中止になり、プロ野球の開幕もなかなか決定できない中、結果としては、同じだったかもしれない。
 ただ、コロナ禍で、新たな偏見や差別が生まれる雰囲気の中で中止を迎えることが残念でならない。野球の枝葉末節を取り上げて、野球を批判する人もいる。特別扱いするな、と知った風に言う人もいる。しかし、戦後1年たたずに開催された全国高校野球大会が日本人に希望を与えたように、球児のプレーが再び希望をもたらしたかもしれない。

 野球が変わらければならないとすれば、高校球児に、高校以降も野球を続ける道をもっと多種多様に用意することではないか。
 大学野球に参加できる若者は限られる。社会人の野球も昔ほど盛んではない。野球はチームスポーツなので、個人で続けたいと思っても、チーム作りを呼びかける人と経済面施設面のバックアップが不可欠だ。部活の指導者が不足し、教員への負担を増やしているのだから、外部指導者の道をつけてあげることも有効だろう。

 甲子園大会が中止になったのは、誰のせいでもない。大会が無くなっても甲子園を目指して仲間たちと流した汗や涙は絶対に無駄にならない。

 野球だけではなく、高校の部活に青春を掛けてきた多くの若者が宙ぶらりんな気持ちに苦しんでいる。残酷だが、それでも彼らは生きている。今はまず生きていることに感謝しよう。生きていることは、決して当たり前ではないのだから。

(補足)TVや新聞(ネットニュースも含めて)は、現場を知らない「専門家」や専門性の全くない「コメンテーター」の意見ばかり流さないで、ウィルスと細菌の違いの説明をもっとしてほしい。それだけでも、何を恐れる必要があり、何を恐れなくてもいいのかわかるし、一人一人が工夫を思いつけると思う。


2020年5月15日金曜日

幻の完全試合

 完全試合を達成した投手は、100年の歴史を誇るメジャーリーグでも、これまで23人しかいない。それだけ難しいということだが、この数に含まれていない、「幻の完全試合」があった。

 2010年6月2日、デトロイト・タイガースの先発投手ガララーガは、インディアンズに対し、9回2死まで一人の走者も出さず、27人目ドナルドも平凡な一ゴロ。ファンのすべてが大記録達成の瞬間と思ったが、一塁塁審のジョイスはセーフのコール。ビデオのリプレイでは、ベースカバーに入ったガララーガがベースを踏む方が明らかに早かったが、当時は今のようなアピールが認められていなかった。結局、インディアンズの28人目の打者は三ゴロに倒れ、記録上1安打完封でゲームセットとなった。

 試合後ビデオリプレイを見たジョイスは誤審をすぐ認め、ガララーガに涙で謝罪。ガララーガもこれを潔く受け入れ、握手を交わす場面に多くのファンが胸を打たれた。ガララーガは、完全試合「達成」者の中では、メジャー通算で30勝に届かなかった投手だ。大記録を逃した悔しさも一層だったはずである。ジョイスの働きかけもあり、メジャーリーグ機構は、この試合の記録を訂正する検討もしているらしいが、たとえ、「記録」が訂正されなくても、ガララーガとジョイスの「フェアプレー」は、これからも野球ファンの「記憶」に残っていくだろう。

 シニアリーグの試合規定にも明記されているから、改めて言うまでもないが、中学野球では、たとえ誤審であっても、抗議はあるべきではないと思っている。子どもたちのために慣れない保護者審判が汗を流してくれているときはなおさらだ。
 まだ確実性のない野球人生の入り口の選手にとって、その一球の判定が覆るのと、それによって失うものとを天秤にかければ、当然抗議はノーだ。

 どんなに精進し、全力を傾けても、哀しいかな人間の行うことに間違いはつき物である。だが、一方で人間だからそれを許すことができる。間違いを乗り越えて成長することができる。

 本人でないから言えるのかもしれないが、記録に残る結果より、大きなものを得ることができるのも人間だ。記録の良しあしがすべてだったら、プロ野球なんて翌日新聞でスコアさえ見れば事足りるが、そうではないから、テレビやラジオの前で一喜一憂するのだろう。

 ビデオ判定対象の拡大により、監督がアピールするタイミングも、試合の流れを左右する重要な要素になった。マイナーリーグでは、ストライク/ボールの判定を一部ロボット審判に置き換える準備も進んでいるが、野球の本質が変わってしまうのではないかと危惧するのは私だけではあるまい。
 最新のエレクトロニクスとソフトウェアで作られていても、しょせん人間の作るものにはバグがある。万分の一かもしれないが、ロボット審判が誤審をしたとき、それを収拾するのは誰なのか。
 選手にとってはかけがえのない試合だからこそ、誤審の可能性があっても、人間に任せたいのではないのか。野球は人間のスポーツなのだから。

(補足)捕手のフレーミングを、ミットを動かしてボール球をストライクに見せる姑息な手段だと思っている人は案外多いが、それは間違い。そんなことをしても、球審の心証を害するだけで、何もいいことはない。捕球動作の乱れ(強い球でミットが自然に流れてしまう等)によりストライクぎりぎりの球がボールと判定されないよう、正確に補球する技術がフレーミングだ。念のため。

虹の病院で歌う「明日に架ける橋」

 また野球と直接関係なくて恐縮だが、元気が出たニュースをひとつ紹介したい。

 イギリス、ウェールズの仮設病院で、医療職員が英語とウェールズ語で「明日に架ける橋」を歌った映像が世界中で、医療従事者や患者を励ましている。



 この病院は、もともとコンサートホールだったが、コロナウィルス感染者の増大に伴い急遽病院に作り替えられ、「虹の病院」と呼ばれている。もともと音楽を演奏する場所ということもあり、まっすぐ正面を向いて歌う医療従事者の素晴らしいハーモニーをより一層際立たせている。この曲を50年前に作ったポール・サイモンも、彼らの勇敢な行為を称え、自身のツイッターで紹介した。

 サイモンとガーファンクルの最後の共同アルバムのタイトル曲として1969年に発表された「明日に架ける橋」は、ゴスペルをベースにした厚みのあるメロディーと、人間本来の温かさを溢れさせた歌詞で、以後10年間にわたって世界中のヒットチャートを席巻しただけにとどまらず、アメリカで、あるいは南アフリカで、傷つきながらも励ましあって前を向く人たちを勇気づけ続けてきた。

 私も小学校6年生の時この歌に出会って以来、何千回聴いたか分からない。ポールのコンサートも3回聴いたし、彼の音楽は私の血肉となっている。

 まずは、虹の病院のスタッフたちの声を聴いていただきたいが、彼らのメッセージを伝える手助けになれば、との一心で、拙訳(一部かなり意訳した)を紹介する。

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 Bridge Over Troubled Water

君がへこたれて惨めな気持ちで
涙があふれてきたときは
僕がぬぐってあげよう
君の味方だもの
ツキに見放され
頼る友達もいないときも
逆巻く波を乗り越える橋のように
僕は身を投げ出そう

誰も認めてくれず
街角に放り出され
夕焼けを見て胸が締め付けられるときは
僕が君の思いを聞いてあげる
君の夢に手を貸そう
夜の幕が降りて
何をしても辛くてたまらないときは
逆巻く波を乗り越える橋のように
僕は身を投げ出そう

輝きに包まれて
船出する時が来た
君はもうひとりじゃない
すべての夢が動き出している
ごらん、それがどんなに輝いているか
それでも君が心細いなら
僕がすぐ後ろをついていってあげる
逆巻く波を乗り越える橋のように
君の不安をとりのぞいてあげよう

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 コロナで顔を合わせることができなくても、僕らは決してひとりじゃない。