2020年5月16日土曜日

遥かなる甲子園

 夏の甲子園中止へ、という見出しがTVニュースや新聞のトップに掲げられた。5月20日まで正式決定ではないが、懸念していたとはいえ、球児たちがもっとも見たくなかった結果になりつつある。

 甲子園の出場を争うチームの選手たちのほとんどは、小学生から野球をやることが生きることと同義だった子ども達だ。野球に打ち込める物理的量は、高校によって違うが、気持ちは強豪校だろうと、一般公立校だろうと何ら差があるものではない。
 息子が縁あって高校球児となり、今時嘘みたいな良い仲間に恵まれ、親子一緒に成長できた。3年の春の県大会で決勝進出に王手をかけるまでになり、夏の甲子園を真剣に目指す中でもドラマがあった。しかし、現実は夏の県大会1回戦敗退。高校は夏負けた瞬間に終わる、という残酷さを体験した。
 それでも、全力を尽くして戦って負けたのだから、涙を流した後は前を向ける。
 たたかって負けることさえできなかった選手たちの気持ちを、野球に関わっていない方も、どうか思いやってほしい。

 高野連はこれ以上ない辛い決断だろう。高校総体が早々と中止になり、プロ野球の開幕もなかなか決定できない中、結果としては、同じだったかもしれない。
 ただ、コロナ禍で、新たな偏見や差別が生まれる雰囲気の中で中止を迎えることが残念でならない。野球の枝葉末節を取り上げて、野球を批判する人もいる。特別扱いするな、と知った風に言う人もいる。しかし、戦後1年たたずに開催された全国高校野球大会が日本人に希望を与えたように、球児のプレーが再び希望をもたらしたかもしれない。

 野球が変わらければならないとすれば、高校球児に、高校以降も野球を続ける道をもっと多種多様に用意することではないか。
 大学野球に参加できる若者は限られる。社会人の野球も昔ほど盛んではない。野球はチームスポーツなので、個人で続けたいと思っても、チーム作りを呼びかける人と経済面施設面のバックアップが不可欠だ。部活の指導者が不足し、教員への負担を増やしているのだから、外部指導者の道をつけてあげることも有効だろう。

 甲子園大会が中止になったのは、誰のせいでもない。大会が無くなっても甲子園を目指して仲間たちと流した汗や涙は絶対に無駄にならない。

 野球だけではなく、高校の部活に青春を掛けてきた多くの若者が宙ぶらりんな気持ちに苦しんでいる。残酷だが、それでも彼らは生きている。今はまず生きていることに感謝しよう。生きていることは、決して当たり前ではないのだから。

(補足)TVや新聞(ネットニュースも含めて)は、現場を知らない「専門家」や専門性の全くない「コメンテーター」の意見ばかり流さないで、ウィルスと細菌の違いの説明をもっとしてほしい。それだけでも、何を恐れる必要があり、何を恐れなくてもいいのかわかるし、一人一人が工夫を思いつけると思う。