日本プロ野球の黎明期、名古屋軍で活躍した石丸進一という投手がいた。偶然私と同じ姓だが、「~丸」という姓でよくあるように、九州佐賀の出で、私の父と同じ故郷であることからも親近感を持った。
8歳上の兄藤吉もプロ野球のスター選手で、その後を追ってプロ選手になった進一は投手として昭和17年に17勝、18年に20勝を挙げ、当時は天文学的金額だった家の借金を兄とともに完済した。戦前最後のノーヒッターでもあった。
歴代プロ選手の中でも突出した野球バカで、実直堅物な絵に描いたような九州男児だった。捕手がミットを動かして際どい球をストライクに見せようとするのも嫌ったという。野球を続けていれば、戦後も日本を代表する大投手になったはずだが、戦争がそれを許さなかった。
当時のプロ野球組織は、沢村を軍隊で消耗させた痛恨の反省を期に、徴兵免除を目的に所属選手のほとんどを大学に偽装入学させるなど懸命の努力を続けていたが、ミッドウェーでの大敗後益々ひっ迫する昭和18年、兵力不足を補うため、日本政府が高等教育機関に在籍する20歳以上の文系および一部理系の学生を在学途中でも徴兵し出征させる「学徒出陣」を始めるに及び、進一の将来は断たれた。
軍隊教官がいかに鉄拳制裁で洗脳しようとしても、動員された若者の本心を変えることはできない。曲がったことの嫌いな進一の反発はなおさらだった。しかし、ごまかしの利かない彼は、徴兵後の適正検査も全力であたり、優秀な成績をおさめ、航空隊に配属される。この時期新規に航空隊に配属されることは、特攻と同義であった。非人間的であるのはもちろん、軍部が面子を保つため、あるいは敗色濃厚の不安と鬱憤を晴らすためだけに、若者と資材をいたずらに消耗する愚策中の愚策だった。
昭和20年5月11日、進一は、法大出身の本田少尉を相手に10球のキャッチボールを行った後、鹿児島鹿屋基地から沖縄方面へ出撃し、帰らぬ人となった。享年22歳。日本がポツダム宣言を受け入れるわずか3か月前だった。
コロナ禍で先が見えない中、戦前戦中の野球人に関する本を読むことが多くなった。戦後建立された鎮魂の碑には、沢村や石丸を含め、戦争で亡くなった70名以上のプロ野球選手の名が刻まれている。行方不明の選手もおり、実態はこれを上回るだろう。
今は苦しくても、戦争で本人や家族の命が絶たれることはない。コロナの感染が収まった後の社会が、こうした悲劇を繰り返さない、平和で友愛に満ちた世界であることを願わずにはいられない。